人と地球の再生メディア

09 Feb. 2022

思考を巡る旅へ

雲ノ平山荘・伊藤二朗 言葉と場の力で人と自然の関係性を再構築する 

北アルプスの自然保護や人と山との関わりについて、ときに強い言葉で問題提起を続けてきた雲ノ平山荘・伊藤二朗さん。妻・麻由香さんのサポートを得て、いまさらにもう一歩先へ踏み出そうとしている。山小屋がオフシーズンに入った12月、編集長・千代田とRGM編集部で伊藤夫妻が住む三浦市を訪ねた。"人と地球の再生” をテーマに歩き始めたこのマガジンと二朗さんの熱い想いとは、根底で共鳴し合っているように感じていたからだ。雲ノ平山荘と同じく彼の美学が結集した漁港近くのご自宅にて、お二人の暮らしに触れながら、伊藤二朗という人物の "源流” に迫ってみた。

かつて “最後の秘境” と呼ばれていた北アルプス・雲ノ平。その景色に溶け込むように建つ美しい雲ノ平山荘について語るとき、一体どこから話せばよいのだろうかと逡巡する。その成り立ちについては、この地を切り開いた伊藤正一さんの著書『黒部の山賊』をお読みいただくのが一番だろう。

現在の山小屋は2010年に再建したもので、二代目オーナー・伊藤二朗さんが手がけた。正一さんの次男として生まれた二朗さんは父のフロンティア精神を受け継ぎながら、いまの時代だからこそ必要ないくつかのプロジェクトに取り組んでいる。

そのひとつは食料などの物資を荷揚げするヘリコプター不足問題。2019年に二朗さんが発信したメッセージ『登山文化の危機!山小屋ヘリコプター問題』はSNS上で拡散され、山岳業界を越えて大きな注目を集めた。これにより、日本の国立公園のあり方について考えさせられた人も多いことだろう。

2020年からは『アーティスト・イン・レジデンス・プログラム』も実施している。これは夏の期間、アーティストたちに2週間山荘に滞在してもらい、彼らの作品制作をサポートするというもの。ここで生み出された表現は『nubis umbra(ラテン語で雲の影の意)』という新ブランドで製品化し、販売している。ほかに、三鷹のショップ・ハイカーズデポとの協働で『雲ノ平登山道整備ボランティアプログラム』も推進中。自然を生かした整備を行う“近自然工法” を基軸に、私たちと自然環境との新しい関係性を提案する取り組みだ。

言葉を重ね、アクションを起こしながら、伊藤二朗はどこに到達していくのだろう。


精神を支えるものすべてに
魂を求めてしまう

ーーとても素敵な空間ですね。三浦市を麓の拠点にしようと思ったのは何か理由があったのでしょうか。

二朗:不動産屋が教えてくれたんですよ。僕は新宿区で生まれ育ちました。青年時代にジェットエンジンの発明に没頭していた父が終戦直後に北アルプスの三俣蓮華小屋の権利を譲り受け、それから山小屋の経営に乗り出したんですね。でも生活の拠点は東京がいいと考えたらしくて、それで新宿に引っ越してきました。

そのあと紆余曲折あって、僕が23歳くらいのとき、両親と兄(伊藤圭)夫婦は安曇野で生活するようになり、東京の拠点はもういいかなという流れになりました。でも僕は一人者だし、いまから地方に引っ越す必然もないなと思って関東に残ったわけです。

ただ東京は物価も高いし、将来的に行き詰まるような気もしていたから、近隣によい住環境はないかと探していました。東京人て、周辺エリアのことあまり知らないんですよね。それで思いつきで鎌倉に行って不動産屋に入り「音楽が好きなので自由に音楽が聴けて、雰囲気のいい一軒家はないか」と相談しました。そうしたら「鎌倉は物価が高いから南に行ってください」と言われて。

その足で京浜急行に乗って、なんとなく終点の三崎口で下りてみた。田畑しかないなと思って歩いていたら不動産屋があって、そこで案内してくれたのがこの家でした。僕は質感があるものが好きなんです。この家も質感が気に入りました。

ーー10代後半から20代は放浪の旅に出ていたと伺っています。

二朗:そう、彷徨っているという意味では今も旅みたいなものなんだけど。一番まとまって旅をしたのは20歳前後、1年半日本を離れてヨーロッパに行ったときかな。あとは25歳のとき2ヶ月半、南米に行ったり。その後、雲ノ平山荘の建築プロジェクトが始まったので長い旅からはしばらく離れていて、再び活発に旅をするようになったのは30歳過ぎてからです。

ーー古い家具や焼き物がお好きなんですね。

二朗:陶芸に凝り始めたきっかけは骨董の唐津焼を見てから。黒の質感がすごく好きになったんですよね。僕の場合、陶芸も自然の質感と完全にクロスオーバーしています。たとえば窓から見える風景が電柱ではなく木の梢だったらいいなと感じるとして、それと同じ感覚で床の間に好きな陶器を置いている。自然も人間がつくり出す表現も分けて考えていません。人が表現することもある意味では、自然の美しさに近づこうとする行為でもあるしね。

音楽もそう。かつて僕は完全な孤独者で、人間関係が壊滅的だったんだけれど、音楽に精神を支えてもらった。僕にとっては人間に触れ合うのも、ものに触れ合うのもあまり意味が変わらないんです。だから、ものにも生命感や魂を求めたい。家もものづくりも、人の暮らしや精神を支える存在だと思っているので。

ーー音楽に支えられたというのは?

二朗:12歳のときにパンクロックに出合うんです。中学に入って孤立してしまって、自分の存在もろとも吹き飛ばされたかった、消え失せたかったというか(笑)。パンクロックは、貧しくてどこにも行き場のない若者たちが想いのたけをぶつけるためにつくった音楽だから悲哀でしかない。それが自分の立ち位置に説得力を与えてくれて、強い共感を覚えたんですね。世の中の不条理なものに対する表現にぐっときてしまって。中2の頃、ブルーハーツの最後の武道館公演に行きましたよ。本当によかった、泣きました。

70年代に始まったパンクロックは本来すごく優しい音楽だし、時代のなかでいろんな新しい要素を取り入れながら変容していきました。だからパンクロックを掘り下げていくと、ジャズとかアバンギャルド、テクノ、民族音楽など、いろんな文化や音楽にアクセスできるんですよ。その頃に聞いていた音楽はいまも聴いていますね。

圧倒的に愛されなければ
建物は未来に残らない

二朗:そういった変容は器も同じでね。面白いものと面白いものが出合って化学反応を起こして新しい表現が生まれてきた。たとえば陶芸でも唐津は李朝の流れを汲んでいるけれど、そこに日本的な花鳥風月が加わったことで唐津らしさが生まれ、さらに中国の流れも入って来て伊万里焼の誕生に繋がっていくとか。

僕はパンクと陶芸はまったく同じだと思っているんです。どちらも質感の問題だから。僕の場合は音楽を聴くときも、音の質感で好きかどうかがほぼ決まってしまう。生命感というのは質感にかかっていて、質感というのは中の素材が滲み出るものでもある。だから音を評価するのと、視覚的な手触りや目障りを評価することは、僕にとっては変わらない。それは言葉にも言えることだと思っています。

千代田:表現としての言葉ということですか。

二朗:言葉の使い方ですよね。文脈によって単語の意味って変わってくるじゃない?さらに文脈以外にそれを語る人の雰囲気によっても変わってくるし。そのあたりのニュアンスを説明するのは難しいけれど。

僕自身でいえば「信じ切っていない言葉」が好きです。ちゃんと感じている言葉が好きかな。たとえば何か理想について語るとき、正義とかある種のイデオロギーとかがベースになっていることってあるじゃないですか。山を語るときにも「高ければ最高」みたいな信じ方がある。

でも僕はそういう言葉じゃなくて、常に余白がある表現、緊張がある言葉とうのかな。「もっと正しいものがある、もっと美しいものがあるんじゃないか」と探る余白がある言葉が好きです。そうじゃないと、すごく嘘に感じられてしまうんだよね。

ーーその感覚はわかる気がします。余白のない言葉は「それって本当に真実なのかな」という疑問を抱かせることがありますね。

二朗:別な言い方をすると、虚しさを知る、孤独を知る表現が好きですね。権威的なものを無条件で良しとするんじゃなくて、常に権威を打ち消す形で確かめようとしている表現というかね。そうすると許容量のある表現になったりするし、誠実なものであり得るんじゃないかな。美なんて本当にそうですよ。

ーーもし山小屋を経営していなかったら表現者になっていた可能性はありますか。

二朗:あるでしょうね。いまとなっては建築に興味がある。建築というのは器であり景色なんですよね。人々の時間や暮らしを扱うものだから、個を主張しすぎてはダメで、風土性や景色の連続性を理解していなければならない。僕は最高のデザインは調和だと思っていて、それを一番明確に伝えられるのが建築だと思っています。

自分が楽しければいいというものじゃなくて、最大限の表現をしつつ、最大限抑制も効かせなければいけないわけですよ。文化としての深い思慮と矜持が生まれるという意味では、最高に緊張感がある。

千代田:先日、立川の昭和記念公園に行ったんですけれど、伊東豊雄さんが設計した建物があって。大地が隆起したような人口地盤の下に施設が収められた建築なんですね。緑を残すべくつくられた公園の中に、通常の建築とは異なるアプローチで設計された建物がある。2000年代初頭という時代だから可能だった建物かもしれないなと思いました。雲ノ平山荘もまさにそうで、ありのままの自然の中に建っている。いま建築家がそういう案件を受注したいと思っても、なかなかできないと思うんですよ。

二朗:雲ノ平はもとの景色が素晴らしいですからね。それを壊さないようにしつつ、あわよくば人の好奇心をくすぐるようなランドマークをつくりたい。そういうものができればいいなと思っていました。いまより建築の知識は持っていなかったけれど、精一杯そういう方向でつくったんです。

自分の好みだけで構築しようとすると、歴史が培った知恵とかデザイン性とかに負けてしまう。そういう意味では日本建築は重要な要素の一つでした。無条件で懐かしさを感じることができるし、社会の中でほとんど知識は失われているにもかかわらず、ある種の評価基準として「これはすごい仕事だ」とか「これは雑な仕事だ」とか僕らの記憶の片隅に残っているんですよね。

千代田:ありますね、そういう記憶は残っていると思う。

二朗:そういう文化の記憶は深いんです。記憶の連続性というのは唯一といっていいほど現代においても共有可能な要素なので、そういうものを可能な限り使っていきたい。

愛されないと文化は絶対に残らないんですよ。自分が好きだから残るとか、建物が頑丈だから残るわけじゃなくて、絶対に失いたくないという積極的な意志が働いて建築は残ってきた。そう考えると、僕が去った後の人たちが、残そうという意志を持てるかどうかという話になっていく。精神論ですよ、このあたりは。

社会の中における
山小屋のあり方を変えたい

ーーいまお二人で山荘を経営されているわけですが、どのような出会いだったのですか?

麻由香:2013年、雲ノ平山荘に働きに行ったのがきっかけです。シーズンが終わった後にこの家に遊びに来て、それからずっと一緒にいます。以前は公認会計士として会計事務所に勤めていました。5年ほど勤務して、退職後1年くらいワーキングホリデーでカナダに行って遊んで。前後して山登りを始めて、仲間に「山小屋で働きたい」と話したら雲ノ平山荘をすすめられて。ちょうど新しい山小屋が出来上がったばかりだったんです。

雑誌『PEAKS』の北アルプス特集で雲ノ平山荘が表紙になっていて、記事を読んだら「ホスピタリティがよい」と書いてあったので、これはいいかもと思って(笑)。結婚したのは2016年のことです。

ーー二朗さんお一人からご夫婦で経営するようになって、変わったことはありますか。

二朗:それは全然違いますね。違いすぎて説明できないくらい。山小屋の経営って半分は生活なわけじゃないですか。仲良く暮らさないと居心地が悪くなるし、仕事もちゃんと回さなければいけないし、規律も守らなければいけないし。

生活をコーディネートするというのは僕のような人間は不得手なものでしてね。何かコンセプトを打ち出したりすると、山荘の中がギクシャクすることの方が多かった。生活の安心感を生みだすことに関しては、まゆちゃんが来たことによって上手く回り始めました。度々足を運んでくれるお客さんも圧倒的に増えたんですよ。

二人の人間がバランスを保つことで、自分に対する客観性も生まれました。仕事を分担して余裕が生まれると一つひとつのクオリティも吟味できるし、人に教える力も強くなって、その人たちがさらに周りの人たちに教えてくれるようにもなる。一つずつの精度が高まっていくのを感じています。

麻由香:私が山小屋に入った頃は、スタッフ全員が勤務初年度で経験ゼロでした。二朗さんが夕食に提供する石狩鍋の作り方も教えていて。

二朗:もう少し前、2000年頃の山小屋を振り返るとスタッフはヒッピーの人たちが圧倒的だったんですよ。ある意味でまだ日本が元気だったとも言えます。海外放浪して帰国して、日本で短期間労働する若者がたくさんいました。いまの日本社会はその元気すらなくなっているんだよね。

山小屋にアルバイトに来る人は、下界でいろいろあって漂流してきた人も多くて、駆け込み寺みたいな存在でした。でもそういう山小屋の雰囲気から僕は脱却したくてね。理念を伝えて、憧れられるような職場にして、社会に対してポジティブな影響力を与えられるようになるところまで持っていきたいというのが今の希望です。


麻由香:かつて二朗さんがやっていたことの一部を私が引き受けるようになったことで、それまでできなかった外に向けての活動もできるようになってきたかなとは思います。出会った頃はオンシーズンがあまりに大変すぎたので、オフシーンは何もかも忘れたいという雰囲気でした。シーズンを反省するようなことを話すと「思い出したくない」みたいなニュアンスがありましたけれど、いまは逆で、オフシーズンもやることがいっぱいある。まったく状況が変わってきた気がします。

二朗:昔は僕の中でも山小屋の捉え方自体が違いましたね。下に降りてからは、麓の生活を取り戻すリハビリ期間みたいだったんです。まったく異なる生活だったので。

麻由香:いまは、立ち上げたばかりのブランドの仕事を進めたり、コロナの影響で変更した営業方針をどう効率化していくかといったことを考えたりしています。

自然保護を唱える僕は
かつて異端者だった

千代田:雑誌『PEAKS』で「山と僕たちを巡る話」という連載をされていますけれど、二朗さんは以前から外に向けて積極的に発信をしていたのですか。

二朗:三俣山荘と雲ノ平山荘は2021年春までは同じ会社だったんですね。それで、親父が亡くなる2016年まで『ななかまど』という雑誌を発行していました。そこで年一回書いていましたね。

社会的な文章を書いたのは2003年頃だったかな。ちょうどその頃、親父が林野庁と裁判をしていたんです。80年代、林野庁が山小屋の地代をアクロバティックに徴収すると言い出して、それに異議を唱えたら、山小屋の撤去命令が下ったというのがざっくりとした経緯なんだけれど。それが裁判に発展して、結審が2003年だったと。基本的にはグレーだったんだけれど、裁判としては負けたので、山小屋が撤去されるんじゃないかという緊張が一瞬走ったんですよ。そのときに書いたのが初めての社会的な文章でした。それにしても、当時は自然保護を唱えると業界内ですごく嫌われるような空気でした。

千代田:ほかの山小屋から?

二朗:そう。その頃は若気の至りもあって、雲ノ平周辺で行われた公共事業を批判して「知識のない役人と建設業者が2000万も使って自然破壊をするのに、国立公園の整備予算が使われているのは無茶苦茶だ」などと、まったく空気を読まずに会議などで言い放っていましたから。


山小屋関係者にも建設業に携わっている人がそれなりにいます。国立公園の予算の少なくない部分が建設業に吸収されていて、ともすると自然破壊に回っているという構造のなかで、自然保護について主張する業界人は今も昔もあまりいません。国立公園の質の低さも問題ですが、要は山小屋業界の価値観も日本の一般世論の平均値とあまり変わらないので、公共事業批判というだけで引かれてしまうんです。

2009年に編集者の朝比奈耕太さんが雑誌『PEAKS』を立ち上げるのですが、ちょうどその頃、自分は山小屋をつくっていました。当時のピークス編集部は「ちょっと前までバイク雑誌をつくっていた」とか「サーフィンが専門です」といった人ばかりで、その分、自由な視点で山小屋を取り上げてくれたんですね。

日本の登山界はマッチョ志向、集団志向が強くて、山小屋会議なんて特にそういう世界だったから、新参者の朝比奈さんが参加すると相手にされないような状態で、それが僕の立場とシンクロして、なんとなく共感してくれて。

山小屋のビジネスモデルが時代遅れになりつつあるのは誰の目にも明らかだったので、次第に「このままだとシステムが破綻する」とか「山小屋の経営自体が成立しなくなる」という僕の発言を裏付けるような出来事が重なっていった。それで「あいつのいう通りになってきたな」という雰囲気が業界に漂い始めた頃、朝比奈さんから「連載でも書いてみる?」と話をいただきました。それが2018年です。

千代田:雲ノ平山荘のサイトにも一部抜粋が掲載されていますね。(雲ノ平山荘サイト「山と僕たちを巡る話」)

二朗:そういう意味では朝比奈さんは恩人だな。朝比奈さんがいなかったら1ミリも道は開かれなかったわけだから感謝しています。書き始めたら、人に伝えるように書くということがどういうことなのか練習にもなったし。

書くことに慣れてきた2019年、ヘリコプター問題が浮上したんですね。ヘリ問題について取り上げてほしいと相談したら「じゃあ書いてみて」と言われて、書いたものを見せたら「内容的に本誌には載せられないけれど、雲ノ平山荘のサイトに掲載するのなら拡散に協力してあげるよ」と言ってくれて。結果的にSNSでバズったわけです。

もうね、神の思し召しかと思うほどのバズり方でした。いま考えるとすごく地味な話題なのに10数万人の人が読んでくれて、ラジオや新聞にも取り上げられて。風が吹いてきたので、いよいよ頑張らなきゃいけないかなと思って取り組んでいます。

この出来事により僕は完全な異端者ではなくなりました。そもそも僕が語っていることなんて、まともな企業の経営者なら当然言うであろうことばかりなんですけどね。

社会を形づくるのは言葉
自然を再定義する必要がある

二朗:僕の場合「自分の存在は小さい」という位置づけが前提にあって、だからこそ自分を超えるものをつくる必要があると思っている。山小屋の建築もまさにそうで、自分が理想とする社会は生きているうちには実現しないかもしれない。だからこそ、あの場所が魅力的であるということは最も重要なことの一つかなと思うんですよ。

場所がコミュニティをつくり、景色が人に語りかけ、それらが僕の死んだ後にも大きな説得力として残っていく。未来の手本になるというか、建築を建てるときにそんなことを考えましたね。

当時はまだ言論を発信する手段を持っていなかったので、物言わぬ表現として理念を伝える場所、文化が大事だと思って。建て直した山小屋が具体的なイメージになって人が集まり始めたことで、新しい拡がりが生まれてきました。

千代田:最近ではハイカーズデポとの協働でトレイル整備もされていますね。(雲ノ平山荘サイト「雲ノ平登山道整備プログラム

二朗:こちらはもうちょっと直球勝負なんだけれど、経験を共にするという意味では同じかな。仲間ができると求心力が上がるんですよね。個人の主張の何十倍も拡がっていく。若い頃から山小屋を経営してきて自分の小ささを痛感しているし、活動できる年月もそれほど長くないと思っているから、その間にどれだけのことを有効に形にできるかだと思っています。

そう考えたとき、言葉って大事なんですよ。社会の形をつくるのは言葉なんだよね。説明可能な要素が共有可能な要素になっていくわけで。共有されながら思想が成熟して社会制度を生み、都度エラーを修正して……ということになる。それを日本の社会はあらゆる場面で怠りすぎているので、政治家とか言語障害状態になってしまっているんだけれど。あっ、ここ記事に採用してくださいね(笑)。

説明可能な領域に構築していく作業は、どうしたって避けて通れないんですよ。日本は古来自然と共存して美しい文化をつくり上げてきた……みたいな紋切り型なことを言う人がいるけれど、もはや自然との関係が破綻している今となっては、新しい言葉を生み出さないとどうしようもないところまで来ている。僕らは、自然との関係性を再建するということについて、はっきりと責任を持たないといけないんじゃないか、というミッションですよね。

自然について考えるとき、もはやジャンルとして「山に登ろう」でも「海を守ろう」でもダメな状態なわけですから。いま自然という単位を再定義しなければいけないと僕は思っている。自然は僕たち全員にとって、どのような存在意義があるのか、そういうことを共有可能な言葉やイメージにしていく作業が必要だと思います。

雲ノ平山荘は
“たむろ場” になれるか

二朗:旅人にとって場所の威力は絶大です。一ヶ月旅をしていても、そこしか覚えていないような場所に出合うことってありますからね。場所の威力があらゆる情報や言葉を簡単に超えてしまうことがある。結果的にそれは人の力によるものなんだけれど。要するに山荘が目指すべきは “たむろ場” ですよ。たむろ場にできるかどうかが勝負なんです。

たとえばニューヨークにはCBGBというカリスマ的なライブハウスがあって、CBGBがなかったらパンクロックムーブメントは起きなかったかもしれない。僕らの山荘もそういうものにならないといけない。情報だけでは絶対にコミュニティはつくれないから。

真偽不明な情報空間に振り回され、画一化や格差拡大も進行する時代に、自然の価値は何かというと、本質的に多様で自律的で自由な存在であることなんじゃないかな。自分の五感を使って世界の存在を確かめられる唯一無二の手段が自然体験かなと思うんです。

ちょっと前まで僕は山小屋の仕事は社会の底辺だと思っていたけれど、いまは最新だぞっていう感じですよ。そういう意味では最新を有効利用しない手はない。自然はこれからみんなのたむろ場として、新しい位置づけになっていくと思う。人間のエネルギーを自然の現場にもう一度集めれば、きっと面白いことになっていくと思うな。だからこそ、コミュニティをいろんな形でつくりたいという気持ちはありますね。

古くからの知恵に
旅の記憶を重ねた献立

千代田:山荘では食事にもかなり力を入れていますね。以前遊びに行ったとき、とても美味しかった。

麻由香:旅の一番の思い出は場所と美味しい食事じゃないですか? ネパールの山小屋に泊まったとき、そこで食べたご飯や水牛のミルクを使ったミルクティーがすごく記憶に残って。そういう思い出とともに、山小屋で働いてみたいという気持ちが高まって「10年後は山小屋をマネージメントしたい」と思っていたんです。その気持ちが雲ノ平山荘のアルバイトに繋がっていったので、ある意味、政略結婚なのかな(笑)。

千代田:なるほど、そうかもしれないですね(笑)。

麻由香:あの空間の居心地のよさに惹かれたんです。雲ノ平山荘をさらに良くするにはどうすればいいか私なりに考えて、食事と食堂空間を充実させようと思いました。お客様もスタッフも居心地のよさを感じるのが大事かなと思っているので、食事の改革は頑張ってきたと思います。

二朗:山小屋ならではの合理性も考えて、いろいろ盛り込んでいるよね。

麻由香:制約のある環境の中で食事をつくるのでいろいろ考えます。最近進めているのは冷凍食品を減らして乾物を増やすこと。日本では昔から乾物の食材を使っていましたから、みんなで研究して活用しています。最近では干し鱈がヒットでした。

ベテランのスタッフが干し鱈を提案してくれて、それが旅の記憶とリンクしたんですよ。ポルトガルで食べた干し鱈料理がとても美味しかったので、それを参考にメニューを考案しました。干し鱈はゆっくり水で戻すと柔らかくなり風味も良いので、煮込み料理にしたりして提供しています。

二朗:『アーティスト・イン・レジデンス・プログラム』が存在するのとしないのとでは全く異なるのと同じくらいに、食事に魂が込められているかどうかって山小屋にとって大事ですよね。食事は生活のアイデンティティだから。

麻由香:女性スタッフと一緒に「こんな料理ができたらいいね」とか「こんな料理が山小屋で出てきたら嬉しいよね」とか追求しすぎて、昨年は自分たちで忙しさを生み出してしまっていたんですけれど。今年はその辺りの手順も考えなければと思っています。

二朗:建物の耐久性は縁の下で決まりますけれど、山小屋では厨房より後ろの世界がそれにあたるわけですよね、食事とか掃除のクオリティとか。僕はそういう意味じゃ、上ずみに過ぎなかったりもするわけです。

山は死に近い場所
僕らはそこで仕事をしている

千代田:夕方遅くに到着する登山者とかには、どう接しているんですか?

麻由香:一応「もう少し早くに到着してください」とは伝えますけれど、しゅんとしてしまうので、後は優しく接します(笑)。

二朗:人によりけりですよね。でもそもそも〝山のルール”って、山小屋のエゴだったりもするわけで。本来、山にルールはないんだよね。山は簡単に死ねる場所だから、みんなそこに魅力を感じて来るわけでしょ。そういう場所で僕らは仕事をしているということなんだよ。

確かに山小屋のオペレーションに余裕がないときに突然「5人ですけれどご飯食べたいです」とか言われても、山小屋のルーティンとしては問題があるんだけれど、それは山小屋にそのスタンスがフィットしていないというだけでね。そのあたりを理解しているかという意味で、危なっかしい人に声をかけたりするのはいいかもしれないけれど、そもそも山にはルールがないということをもうちょっと考えた方がいいとは思うな。必要なのは山を守るルールの方でね。

安全安心の山登りを語ろうとする人もいるけれど、山は安全安心じゃないから面白いと感じるわけだし。何もかも安全安心を目標にした社会になってしまうと、何もしないことが一番安全になってしまう。それって冒険心や向上心がない集団をつくることになってしまうからね。

挑戦しないことがリスクヘッジになるというのが、いまの日本でしょ。リスクを冒して失敗した人に対するバッシングがどんどん強まっていって、誰も挑戦しなくなるみたいな。そういうことを登山やアウトドアの文脈に広げると登山自粛みたいな話になるわけだけれど、僕らに文化としてのプライドがあるのならば戦わなければいけないんですよね。

みんな忘れかけているけれど、本来、山は簡単に死んでしまう場所なんです。だから魅力がある。生きていることを思い出す場所なんですよ。

編集ライター

千葉弓子

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